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目を覚ますと窓の外は白んできていました。
夜中のうちに作業を進めるはずだったのに、少しだけと床に寝転び、そのまま眠ってしまったらしいのです。
私は予定のない日は10時間以上も眠り込んでしまうので、手の込んだ作品を作り続ける作家には、到底なれなかっただろうと思います。一日の半分近くを睡眠に費やしていては、できることも限られてしまって少し悔しいように思うのですが、でもこればかりは逆らえない、諦めるべきことです。何しろ、無理して起きていようものなら、次の日使いものにならなくなってしまうのですから。
アトリエに放置したままの感光紙を慌てて回収した後、明るくなってきた寝室の布団にズルズルと潜り込みます。なんとなく、日が昇る前にまた眠りにつかなければならないような気がしていて、そのまま制作することはほとんどありません。
非日常的にみえる作品も、現実はこんな、ほとんど取り留めもない生活リズムの中で作られています。
ありふれた日常の延長線上で生み出されていく作品ですが、それらを発表するギャラリー・展覧会という場は、生活とはかけ離れた、特殊な空間です。
大学生の頃、アトリエで作品を教授にみせる講評会がとても苦手でした。わたしにとってアトリエは、どんなに物を片付けて、表面上を整えても、「ものをつくる場所」としか思えなかったのです。その場所の意味合いを無視する暗黙の了解のうえで、作品が評価されることが納得できませんでした。作品と空間を一度切り離して観察したくなったとき、私は決まって作品を持って校内を徘徊していました。
母校であるムサビには、校舎の中に名前もない空間が多く存在します。一部屋分くらいの余裕を持って作られた階段の踊り場や、薄暗いピロティ、どこに繋がるわけでもない地下の階段、一見無意味で、目的のない空間は、まだ海のものとも山のものとも分からない、実験作品を置いて眺めるにはもってこいの場所です。私は度々、学内のそういったスペースを使用申請して、展覧会のようなものを開催していました。展示のための空間ではないので、雨が吹き込む、ピンが打てない、テープが貼れない、照明がない等、不都合な点ももちろんありますが、作品にとってマイナスになり得る空間的な特性も隠さずに見せたい、むしろ挑戦してみたいという思いが常にありました。それは大学を出た今も同じです。
今日の本は、2015年に東京・銀座の資生堂ギャラリーで開催された、リー・キットの展覧会カタログ『The Voice Behind Me』です。
リー・キット(Lee Kit)は、1978年香港生まれのアーティストです。彼は展覧会の際、絵画やドローイング、プロジェクターの光や映像、家具や日用品などのファウンドオブジェクトを空間に配置し、その場所の空気や人々の感情に呼応した、サイトスペシフィックなインスタレーションを世界各地で展開しています。
全34ページ、ミシン中綴じ仕様のシンプルな造りの一冊です。わら半紙に似た風合いのやわらかな紙に、展覧会風景とリー・キットによるハンドライティングの文字などが印刷されています。表紙に使われているサイズ違いのブルーの紙は、しっとりサラサラの質感で、手に取ると肌に馴染み、気持ちが良いです。
薄い冊子のような作品集やカタログは、立派なハードカバーの本に比べてシンプルで作りやすいように思えますが、限られたページ数の中で、作品の質感やインスタレーションの雰囲気を一冊の本に内包するのはとても難しいように思います。
私は展覧会を訪れた数年後、時間をあけてこのカタログを購入したのですが、表紙に触れ、ページをめくった途端、たちまちこの展覧会の空気感を思い出すことができました。空間に置かれたテーブルやクッション、ペンキの塗られた壁、プロジェクターの光など、直接触れることは叶わないけれど、視覚的に記憶していたモノの持つ肌理が、サラサラとした本のページの質感と線で結ばれたように感じました。皮膚感覚で展覧会を思い出す経験は他にはないものです。
リー・キットの作り出す空間は、ひとつの絵画のようだと喩えられます。カタログを単にアーカイブとして捉えれば、この本に掲載された図版はどれも、紙にインクが沈みこんでしまって暗く見えますし、紙の表面のテクスチャーが邪魔をして不鮮明にみえます。けれどもこの不鮮明さ故に、ハンドライティングの文字は、実際にそこに書かれているかのようにリアルに感じられますし、写真は現実とは異なる質を孕み、それぞれのページは一枚の絵のように現れます。元のイメージと同等の、またはそれ以上の情報が、この不透明な紙面のヴェールによって新しく生み出されています。本というものを通して、ギャラリーの非日常的な空間と、今本を開いている私の部屋までが地続きとなり、現実の出来事として現れてくるようです。
(裏表紙に小さく隠された、リー・キットのメモ。何度見てもふいに書かれたようなリアルさにハッとします。)
空間を平面に置き換えるとき、このように新たな質が生まれるのは、本を作るうえで理想的な形だなと思い、もう幾度となく見返している一冊です。私は長いこと自分の展示冊子をつくろうと試みているのですが、今の知識と経験では、ただまとめただけのものにしかならないような気がして、まだ形にできたことがありません。
紙を、綴じる。ただそれだけのことなのに、星の数ほど見つかる可能性。
眺めるだけでも時間は過ぎてしまい、気づけば今日も朝の5時。
星と星を繋げて、実際に形になるのはまだ先の話になりそうです。
2022年8月
今日紹介した本:『The Voice Behind Me』リー・キット 著 資生堂 2015年 和英文 25.7×18.2cm ソフトカバー 36ページ
今日の作品:《地球の手触り》2019年 麻紐、アルミ、アクリルガッシュ (下にひいた布:2022年 サイアノタイプの試作)
木下 理子 | きのした りこ
1994年東京都生まれ。2019年武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻油絵コース修了。2022年9月9日より東塔堂(東京|代官山)にて個展「You are what you perceive」を開催予定。 Official Site:https://rikokinoshita.com / Instagram:@kico0703