内と外

毛髪と刺繍

Kraków, Poland

装飾に髪の毛が使われることがある。日本では鎌倉時代以降の繍仏に頻繁に毛髪が縫い込まれていたし、ヨーロッパでは全土に渡り、19世紀初頭から毛髪を編んで作ったアクセサリーが流行りを見せた。その流行りはヨーロッパからの移民の手によってアメリカへも流行りをもたらした。多くはカツラを作る職人によって作られており、需要の高い髪の色や長さもあったが、一部では必ず近しい者の髪で編まれなければならなかった。他人の髪の毛ではお守りとして機能しなかったという。髪の毛など身体の一部は切り離されて遠くに行った時、その人の代わりとなって何かに対して働きかけることがある。移住のために遠くの地へ向かう者や戦地に赴く者、家族を亡くした者や孤児のために、近しい親族あるいは死者の髪の毛でお守りが編まれ、関係性の親密さと髪の毛のもつ霊的な力がアクセサリーに込められていた。宝石類と比べて安価な原材料である事とあいまり広く行き渡っていて、自分で毛髪のアクセサリーを作る方法が書かれた本が出版されたほどだった。しかし第一次世界大戦の後ごろにはその習慣は見られなくなったらしい。

特定の素材を用いて特定の誰かが何かを作り、人を何かから守ろうとする風習は刺繍にもある。これもまた、作り手の手から離れてもお守りとして機能するようにする。日本の背守りは、子どもを守るために多くは母親により縫われていた。大人の着物は複数の布を合わせて仕立てるため背中に縫い目があり「閉じている」のに対し、子供の着物は一枚で仕立てるため縫い目がない。代わりに後から刺繍を縫い付けることで背中に縫い目を与え、そうすることで着物を「閉じ」、背後から忍び寄る悪き存在が、子どもの中へ入って来ようとする事から守った。また第二次世界大戦にかけて大流行した千人針は布に糸で結び目を1000個ほどこす民間信仰で、千人の女性が一人ひとつずつ、布に玉結びをすることでお守りになった。女性が霊的な力を持つとされることから女性が玉結びをし、その力が集結することでお守りとして機能するとされていたらしい。ここでもまた、一部では髪の毛が縫い込まれた例もあったそうだ。多くの人数の力を集結させ祈願につなげるという信仰は女性に限らずあるが、千人針は男性の不在においてその力が集結された。

毛髪を用いたり、刺繍を用いたりしながら、人々の他者の平安を願う行為が物へ残り、物がその関係性を保持したまま遠くの地へ何かを送り届けようとする。自分が見る事のできない距離にいる人を、代わりに守護してもらうように物へ託す。社会の中の誰が何を作るのか、どのように作られるようになったのか、誰が誰だと規定されて機能を持つようになったのか。毛髪のアクセサリーのことを言えば、女性のみならず男性も制作し、女性へお守りとして託していた事もあったようだ。千人針は女性が用意し男性へおくったという印象が強いが、流行し始めた初期は男性自らが街頭へ出向き玉結びを集めていたという記録も残っているらしい。

作り手や素材により機能の違いがある様に、色もその要素の一つになることがあり、赤色もまた、毛髪や女性のように霊的な力を持つ存在だと多くの地でされてきた。千人針は流行り始めた初期は色に決まりがなかったが、途中からほとんどが赤い糸を用いて縫われるようになった。5世紀ごろにはチェコやスロヴァキア、ロシア、ポーランドなど東側のヨーロッパでも、赤色の衣類が魔除け的な意味を持つものとして普及していたという。またチェコの民族服の多くには花や植物をモチーフにした刺繍が施されている。戦地に向かう男性が首に巻くための黒地スカーフには花のモチーフが縫われた。「詳しいことはわからないが、黒地スカーフに花のモチーフを縫うことは、身近の者の存在を思い出させ、悲しみを軽減させるためだったらしい。」と教えてくれた人がいた。色や模様はお守りの機能に作用する。

最近友達のおばあちゃんが作っていたという刺繍の布をたくさん見せもらった。山小屋にたくさん残っているそうだ。言葉が縫われていたり、子どもの絵が縫われていたり、花の刺繍もある。刺繍はお守りや宗教的な祝い事のために用意されることがあるが、それに直結しないものもある。刺繍の他にレース作りの伝統もヨーロッパの各地で見ることができる。一度、ブルノという街で友人の展示を見にとある教会へ行った時、そこに居た人が椅子に座りながらカタカタと何か手作業をしているのを見たことがあった。丸い筒にいくつものピンが打たれていて、白い糸巻きのようなものを使いながらレースを編んでいた。クリスマスのお祝いに使うレースを準備しているのだと教えてくれた。刺繍やレース作りをはじめとして手作業で作られるものは、時代により作り手がものすごく増えたり減少したり、表れてくる色や形態が変わっていくことがある。江戸時代の背守りは点線状で背中に縫い目を施すものだったが、子供を病から守る存在が親から西洋医学へ移っていった明治時代の後半、背中の刺繍は様々な模様で縫われるようになった。髪の毛で編まれたアクセサリーがヨーロッパで広まった要因のうちの一つは、産業革命により大きく変わっていく社会の枠組みに反動し、身近な者の存在や生活の精神的な側面に目を向けるようになったことにあるらしい。人々の手を渡って作られてきたものは、社会の枠組みによって作り手が変わったり、形態が変わったりすることが興味深い。

経験や近しいものとの関係性が、言葉になる代わりに行為を介して物に置き換わっていく。堀切辰一は『布のいのち』という本で、いま千人針というものがあったことを知る人が少なくなり、その作り手の嘆きや、悲しみや憤りが少しずつ消え去ろうとしていると書いている。堀切は、堀切の兄のために千人針を用意する母親の姿を見ながらこう思った。「……出征という現実には、生死がかかわっていた。それを案じていることを母は他の人たちに知られたくなかった。……千人針だけが息子の無事を祈るたった一つの手だてだったのである。父にも母と同じ思いが、その胸にあったにもかかわらず、それを表に出すことは母以上にできなかった。世のすべての父親がそうであったが、戦争が激しさを増してくると、軍部はそのことを全国民に強いるようになった。……」連れ去られる者たちへ生還を祈る手段がたったこれしか残されていなかった。しかしその祈りさえも、千人針を縫う人数から動員される兵隊の人数が敵に知られてしまうからと、戦争が進むにつれ政府から禁止されたそうだ。言葉にできないことを物へ託すことできる一方で、その機会さえなくなることもある。

何かに置き換えて残すことについて考える時、祖母が子供のころの思い出を話していたことをよく思い出す。疎開先の岡山で小さな妹と川で遊んでいたら、気がつかないうちに妹が溺れかけてしまったらしい。助かって何事もなく疎開先の家に帰ったけれど、お母さん(祖母の母親)にはずっと言えないまま秘密にしていたと、たまに話して聞かせてくれた。その疎開先の村は、今はダムの下にある。

参考文献

Alena Krkošková「The Art of Hair Work」『Bulletin Moravské galerie v Brně č.81 Trasnlokalita – migrace – kulturní a umělecká výměna』2020, Moravská galerie v Brně

堀切 辰一『布のいのち 新版 – 人の心、くらし伝えて』新科学出版社, 2004年3月1日

松村 薫子「衣服に現れる怪異:「襟」と「裾」の考察を中心に」2016年, 日本語・日本文化研究. 26 P.28-P.41

渡辺 一弘「戦時中の弾丸除け信仰に関する民俗学的研究 ~千人針習俗を中心に~」2008年, 総合研究大学院大学文化科学研究科 学位申請論文


日原聖子 | ひはら せいこ

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