内と外

そぐわない場にいるということ

ワークショップ「”そぐわないこと”とはどのような意味か、そしてそれをどのように描くか(What does impropriety mean and how to draw it)」 (*1) で描かれたドローイング、Drawn by Hana Chmelíková and her child,  2022

自分の制作のためにプラハのカフェで友人とそれぞれの祖父母の話をした日の帰り、友人が「家族が住んできた地を離れてはいけないと、ずっとそれを責任のように思っていた。」と話していたことを印象深く思ったことがある。その友人の親族は第二次世界大戦下で迫害を受け、多くはチェコからは離れた地で命を終えている。今普通の街に住みプラハの大学で出会った我々は、そんなことも(少なくとも私は)想像できないような社会に生きている。「逃げることもできたのに、おじいちゃんやおばあちゃんはこの地を離れなかった。なぜなのかはわからないけど。だから自分はチェコにいなければならないと、ずっと心のどこかで思っていた。でも最近は、そもそもなぜそのように思うようになったのかわからなくなった。」と言っていた。

チェコに久しぶりに来てからちょうど一年が過ぎ、頭の中でばらばらになっている世界を整理しようとしているのを感じている。自分の土地ではない場所で、次はいつ来れるかわからない地の社会の構造を少し理解できるようになりながら、何ができるのか、友人の言葉の何をもらって帰れるのかを考えている。誰かと話しながら進んでいく私自身の制作過程は、そうして話をしようと友達が話題を持ちかけてくれる瞬間がたまにあるが、それをいつも宝物のように思う。誰かが何かを言葉にして、教えてくれて、あるいは刺繍や誰かから引き継いだ布など他の形で届けてくれた時、またそれが作品となった時、この上なく大切なものを見ることができたように感じる。

昨年11月とある友人に誘われて、その友人が企画した小冊子の制作に関わる形でグループ展に参加することがあった。(*1) 出身校であるプラハ美術アカデミーの歴史の中で一番初めの女性の学生が卒業してからちょうど100年だったらしく、その記念として企画された小さなグループ展だった。(*2) 友人が6名の女性アーティストを集めたその小冊子は、「そぐわないこと」というテーマで各々がワークショップのプランを考え、その内容を収録するというもので、私は「そぐわないこととはどのような意味か、対話をしながらドローイングをする」というワークショップを提案した。その企画をした友人に彼女自身の家族それぞれとドローイングを描いてもらい、その間に録音した会話の一部を文字起こししたものを小冊子に収録してもらった。「そぐわないこと」とは何だろうと思う。彼女と、彼女の10歳のこどもが描いてくれたドローイングには、左下に「Nic Zóna」と書いてある。それは「何もないところ」を意味する。反対に、その囲いの外側の「Něco Zóna」は「何かあるところ」を意味する。

「誰々について話してはいけない」

「むしろ話したほうがいいんじゃないの?」

「小学校にマニキュアをして行ってはいけない」

「誰かにそれはそぐわないって言われたことある?」

「自分がその場にそぐわないって感じたことある?」

そんな話をしながら、友人がこどもに言葉の意味を説明したり、反対に何かの言葉を相手の発言から受け取ろうとしていることが面白く思った。戦争の話をしたり、学校の話をしたり、新しい地へ移り住むことについて話したり。その友人は、通りに面する自分の家の玄関横に小さな掲示板を持っていて、そこを自身の展示場所として用いている。そこで定期的に写真やテキストを掲示していることを「Učím se obývat místa, kam nepatřím.(I learn how to inhabit places I do not belong to. 自分の属さないところにいる方法を学ぶ。)」と名づけ、小冊子に収録していた。(*3) 

友人のこどもが「何もないところ」「何かあるところ」を紙の上で線をひきながら見せてくれたが、実際の社会にもさまざまな線がある。人は、境界線や不確定なことに恐怖を感じることがあるらしく、例えば村と村の境目や橋のたもとには悪しきものがあると言われる。一定の状態から別の状態への「通過中」の出来事や、内側か外側か、例えば生と死の間にある病人など 「どっちつかずの中間的状態」のものを回避しようとする俗信や儀礼は多くあるらしい。(*4) どっちつかずとはどちらかに所属している誰かや何かがそう思うのであって、どっちもあっちも本当はないはずなのに、それは今の自分の周りに見える多くのことにもつながっているように思う。

チェコには90年代ロマ系のチェコ人居住地を切り離すため、居住地の周りに壁を作った街があることを以前書いたが、その街に友人がアパートメントを購入したため遊びに行ったことがある。友人が住むその地区は、戦争の歴史や政策と労働者の関係で一時は多くの人が住んでいたが今は人口が減り、誰かの管理下にはあるが修繕されていないままほとんど廃墟となった建物が多い。そして、別の友人にそこに遊びに行くという話をしたら、「やめた方がいい」と言われたことがある。その街の中には地区により区切りがあるということを、改めて垣間見た瞬間であった。その街には目に見える形でも見えない形でも、明らかな線がある。なぜあの友人は私をその土地に行くことを止めようとしたのか。土地と、人と、線引きは、どのように行われるのだろうか。その線引きはあまりにも軽く、何ごともなかったかのように生活に入ってくる。

久しぶりにチェコにきてから、世界はどのくらい変わるのだろうかと慎重に待っていたけれど、結局何も変わらなかった。攻撃を受ける街へ戻った友人がいることを日常的に話すことのあるこの環境で、私は何をしているのだろうかと思う。戦争は続くし、差別は続く。今いる場の社会の構造がちょっとだけクリアに見えるようになったのは、私が外からやってきた余所者だからなのだろうか。日本のことも、同じようにもうちょっとよく見える日が来るのだろうか。戦争や、差別や、他のさまざまなことは、突然に始まるわけではなく、そのことに気がつかないまま、知らないうちに生活に入り込んでくる。幸いに、私はこの地に大切な友人がいて、友人たちと話をすることができることを思い出して、遠い地に住んだとしても、話を続けられればと思う。

(*1) グループ展「Herstory」プラハ美術アカデミー図書館、 2022年 “herstory”とはフェミニズム的視点から使われることのある「her」と「history」をつなげた用語である。

(*2) プラハ美術アカデミー、 Academy of Fine Arts in Prague 1799年に設立された国内で最も古い芸術大学とされているが、最初に女性の学生が卒業したのは1922年だったということになる。

(*3) 私の企画したワークショップの元々のチェコ語タイトルは「Co znamená nepatřičnost a ja ji kreslit (What does impropriety mean and how to draw it)」だが、「impropriety(そぐわないこと)」にあたる「nepatřičnost」とは「そぐわない」の他に、「その場とは関係のない」や「不適切な」、「いてもいなくても何も影響のない」「属さない」など様々なニュアンスを読み取ることのできる言葉であるらしく、いまだに我々は正しい英語訳を探している。その友人企画したワークショップは「自分の住んでいるとこをやいる所・環境を慎重に観察し、その内容を写真などを用いて他者と共有する方法を見つける」という内容で、「Učím se obývat místa, kam nepatřím.(I learn how to inhabit places I do not belong to. 自分の属さないところにいる方法を学ぶ。)」というタイトルだった。

(*4) 波平恵美子「民俗としての性」(『日本民俗文化大系10 家と女性 =暮らしの文化史= 』小学館, 1985)


日原聖子 | ひはら せいこ

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