内と外

内側と外側

Dresden, Germany

内とはなにか、外とはなにかを改めて考えた時、”内”は共同体(コミュニティ)の単位として捉えることができる。そして共同体とはなにかを考えた時、それは何かを共有しているひとつの形だといえる。たとえば、チェコがチェコスロヴァキアであった社会主義の時代、都市部に住む一部のアーティストは関係性の近しいもの同士で集まり活動していた。国家が許す絵画や彫刻のみをアーティストは表立って作ることができ、決まった表現だけが教えられていた当時の美術大学は、一部の若いアーティストにとって何かを生み出すための場所ではなかった。(*1) それはキュビズムやシュールレアリズムの潮流が国内へ引き継がれ、盛んになっていた時期から続く時代である。海外への自由な渡航が制限されるなどチェコのアーティストは社会の形の変わり方に影響を受けながら、そうした海外のアートの流れから強制的に、あるいは間接的に離れて行った。ただし完全に離れたというわけではなく、その状況を共有していたアーティストたちは隠れて友人たちと集まり、仲間内で海外から持ち込まれたアート雑誌を読んだり、翻訳活動を行なったり、地下活動の仲間内で雑誌を発行するなどして、アートとのつながりを持っていた。(*2)自分のアパートメントへ仲間を招いたり、森の中へ出掛けて行ったり、何かをするには秘密を守る仲間が必要だった。

また共同体とテキスタイルを関連づけて考えてみるならば、千人針は人々(女性)の手によって施された縫い目の集合体であり、縫い手同士のつながりが近しいにせよ、遠いにせよ、人の手が集まって他者への祈願を共有したという点においては、変形した一種の”共同体”の形と捉えて考えることができる。近現代においてはたとえばエイズ・キルトや他のテキスタイルカルチャーもきっと同様に捉えてみることができるし、第一次世界大戦後の一部の国で戦争で負傷した兵士が刺繍をリハビリに用いていたことは、刺繍を介したコミュニティが多様な形で存在していたことを示す。(*3) 髪の毛で作られたアクセサリーは家族間の手を渡り誰かに託されお守りとなっていたように、共同体や人と人との間の関係性は物や人を介して、柔軟に移行していくと考えることができる。家族から離れていく人に、その家族の身体から切り離された毛髪が託され、外側へ出て人の手を渡っていく。そのように”内”あるいは”共同体”の作られ方、また切り離され方、移行の方法はさまざまである。

社会主義時代のチェコは時代の変遷によって自由な雰囲気が増したり、規制が厳しくなるなどの波があったため、世代によってその状況とアートの関係の捉え方はさまざまである。しかし、「見せる仲間はいたし、つくれるところでつくればよかったのだ」とアーティストが話しているのをインタビューなどで度々聞くことがある。(*4) 鉄のカーテンと呼ばれた境界線の内側で、チェコの一部のアーティストたちはアパートメントの一室や街中、博物館の裏部屋などに集まり、さまざまな形で作品を作り、時には友人やパートナーに頼んで作品やパフォーマンスの写真を撮ってもらい記録を残していった。それらの一部はアクションアートとして今日紹介されており、またハプニングやランドアートの潮流を見ることのできるような形式を持つものもある。仲間という”共同体”は都市部だけではなく郊外へも向かい、森や草原の中でも芸術活動を実践した。

当時活動していたアーティストとして、作品の記録が残っている女性は美術史に例外なく多くないが、そのうちの一人にゾルカ・サーグロヴァー(Zorka Ságlová, 1942-2003)という人がいる。郊外の森の中へ仲間7名と出向き約700枚のおむつの布を並べたり、彼女のよく知られているアクションアートで、プラハ市内のギャラリーに干草を高く敷き詰めたというものがある。(当時そのギャラリーが入っている建物は国による修繕という”名目”で閉ざされており、ギャラリーは閉められていた時期だった。)ランドアート的な要素を仲間とともに建物の内部へ持ち運ぶほか、サーグロヴァーは美術大学でテキスタイルを学んでおり、うさぎをモチーフにしたタペストリーなども制作していた。(*5) 

当時のアクションアートの多くは、彼らの友人が依頼をされて記録写真を撮っており、今日我々は、その写真や文書によるドキュメンテーションを介してその様子を知ることができる。彼女の活動を撮っていたパートナーであるヤン・サーグル(Jan Ságl, 1942-)は写真家で、サーグロヴァーの記録写真は当時活動してたアーティストの中で最も状態の良いものが残っていると言われている。アーティストによっては今日まで作品をプリントして見返すことはなかった人もいるし、当時活動していたアーティストが近年個展を開いた際に、インタビューで「仲間と撮っていた写真が今になって引き伸ばされ、ギャラリーに展示されているのは変な気分だ。」と言った人がいた。人と人の間を移行する毛髪のアクセサリーのように、チェコのアクションアートにおいては作り手、記録者、写真そのものが、共同体や時代の関係性の中でさまよっていることが面白い。

家の中で家族と話せることと、学校や仕事場で話せることを区別していたことは、家の外と中を隔てる壁や、家族という共同体が安心感の境目を持っていたことを示している。仲間や共同体に身を置くことで”内”が安心のひとつの定義になる。しかし同時に”内”では、隠蔽やDVなど、見通しの悪さがもたらすことがあることを最近思い返していた。また、内側ばかりを大切にしようとする時、我々は外側のことを忘れてしまう。

今年の5月、「脱植民地化についてばかり語ることには慎重になりたい」とウクライナ出身のアーティストが言っているのを聞いた。複雑な思いを抱いた他のウクライナ出身のアーティストが脱植民地の話をしていた時の会話から出てきた言葉であり、「中を守ろうとすること」はナショナリズムの扇動につながることがあるから、という話だった。共同体を守ること、あるいは脱植民地化することは大切なことであるようだけれど、それはその内部に”締め出された人”、つまり外側を生んでしまう可能性があることへの危惧から発せられた言葉だった。両者の話は、よくわかった。今年は、そうした話をする場に出会うことが多かったように思う。

”内”についてのフレームを探す時、だれかの背景や、その人がいる場所への関わり方についての戸惑いが、世界中で長く続いていることを考える。国や人や集団や、その集団に入れなかった人、共同体に入れなかった人、内側で外側になること。その戸惑いを解消するために、アクションアートやテキスタイルにみる共同体と、その周辺の境目上と社会、内側と外側の行き来についてずっと考えている。

(*1) 社会主義時代のチェコスロヴァキアでは、美術大学を卒業した者には美術家としての学位が与えられた。卒業後にアトリエを国から与えられたり、美術家連盟に入り展示をする資格を得るなどし、美術大学を卒業することが公式にアーティストになるための道だった。しかし、チェコで今日目にすることのできるアーティストや、活躍しているアーティストには、当時の美術大学に通っていた人もいるし、通っていなかった人もいる。

(*2) 年代により海外のアーティストとのつながり方はさまざまだが、たとえば友人たちへ向けたイベントを多く開いたことで知られているミラン・クニージャーク(Milan Knížák, 1940-)は1965年よりフルクサスと強い関わりを持っており、ジョージ・マチューナスにより東欧フルクサスの支部長(Director of Fluxus East)を任せられていた。1968年米国へ行く機会を得ている。 Fluxus East. Fluxus Networks in Central Eastern Europe. Milan Knížák. http://www.fluxus-east.eu/index.php?item=exhib&lang=en&sub=knizak (参照 2022-12-3)

(*3) ヨーロッパのみならず、オーストラリアやニュージーランドでも負傷した兵士のリハビリのために刺繍を用いていたという記録が残っている。それは視力の回復や、腕や肩の筋肉の動きのリハビリのためとして用いられたとされるが、「刺繍」という女性的な作業とされる行為を負傷した兵士が行うということは、「行動不能となった弱い存在」であるということを視覚的に示すことでもある可能性が指摘されている。一方で、刺繍の行為自体がやはり身体的・精神的負傷の回復に役立っており、その”女性的というレッテル”を超えて、効果をもたらされていたはずであることも書かれている。また教会がその活動に関わっていた事例もあり、戦火で無くなってしまった装飾の代わりに、教会の祭壇に使用するための刺繍を縫っていたこともある。 Textile Research Centre Leiden. ” Soldiers embroidering”. https://www.trc-leiden.nl/trc/index.php/en/blog/1313-soldiers-embroidering (参照 2022-11-25)/ INSPIRATIONS. “Embroidery as Rehabilitation After WWI”. https://www.inspirationsstudios.com/embroidery-as-rehabilitation-after-wwi/ (参照 2022-11-25) / Hunter, Clare. TREADS of LIFE “Frailty”. Abrams Press. 2020.

(*4) Jiří Kovanda(イジー・コヴァンダ, 1953- )はこのように書いている。「……70年代のチェコスロヴァキアではそれ(地下活動的な芸術活動の実践を展開していたこと)は自由な選択としてあったのではなく、必要に迫られた美徳だったと考えることができる。もしその場所で実現できなければ、実現できるところで行うまでだった。いくつかの実現はその場の環境と関係性があり、その関係なしには実現できなかったし、それは当時海外で行われていたものとは違う。……」Kovanda, Jiří. “NEJDŘÍV TO BYLO JEN KUS PAPÍRU” in DOKUMENTACE UMĚNÍ. eds. Prošek, Jan and Krtička, Jan. Fakulta umění a designu Univerzity Jana Evangelisty Purkyně v Ústí nad Labem. 2013.(括弧内補足、訳は引用者による)

(*5) AWARE. “Zorka Ságlová”. https://awarewomenartists.com/en/artiste/zorka-saglova/ (参照 2022-11-29)


日原聖子 | ひはら せいこ

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