第一回

ずっと、ねむっていた。雨が降るまえの日は、いつも、こう。あたまが、がんがんして、ずっとねむってしまう。ゆめのなかで、赤ちゃんを抱いていた。他人の。図書館に行って、本をたくさん借りて、安心して、またねむる。図書館にはよく行く?
きょうは、図書館の中のかざりとか、はくせいとかもじっくりみたから、すごくながくいたみたいね。きんじょの、しろいねこが甘えてきて、なんどもなでてやっているうちに、あなたってこんなかなぁって思った。でも、ぜんぜんちがうだろうなぁとおもった。
なつは、もう、くる。
帰ってきて、庭の花をつんで花瓶にさしたら、どれもきゃしゃで、飾るにはこころもとない。でもみんなで集まっていると、わっと話してるみたい。祖母の死後、届くりっぱな花たちと比べると、どちらかというと、わたしはこのこころもとない花の方だろうなと思った。そのどちらもが枯れる時間の夕暮れ。
きみどりやむらさきのぶどうが、もし、庭に実をつけたら。ぴーんとかわがはりつめ、噛むと、パリッと音がして、淡い味がする。わたしのこころのなかの空は、きっと、満ちていくだろう。みんな二年後には脱皮する。しんぱいごとはつきないまま、よるをこえ、まちを壊しまわるけど、でも、たいていのことは、満ちていく。そうじゃなかったら、生きていけない。白いカーテンが世界につづき、かたつむりが、まきもどす。
わたしは、いつも、ないめん、の中にいる。ゆりや、あじさいや、うめや、さくらや、果実の中に。いきものの、お腹の中に、ひかりがいっぱい入っている。そこから産まれるものは、あんしんやあまさや、すっぱさ、しおけも含んでいて、うみのようなあじもすれば、やまのようなあじも、する。
くちぶえの音が、ずっとしている
救急車の音が、ずっとしている
犬の吠える声が、ずっとしている
夜勤に行く
時間になる。
教会の窓に息を吹きかけて、16384日後の日付を書く仕事にも、ときどき、飽きてしまう。でも、人々は、それを見上げて、空や川や太陽のことをおもうことができるのだから、それをわたしの文字が形作っているのだから、しあわせだとおもうこともある。でもいちばん、しあわせなのは、それ以外に何もしなくていいということ。何もしなくていいというのは、実は一番難しく、わたしはそれをまかされていて、誇らしくなるが、誇らしくおもうこともしなくていい。ただいればいい、でもそれが一番むずかしい。この教会に来たら、何もしないでください。という声かけもしない。何もしないでほしいなとおもうこともしない。仕事が終わると、小さな小屋で、ノートを書く。たくさんたくさん。じぶんの都合ばかりでなく、外に出てみると、いつもけしきをみせてくれるから。
笑いかけ、歌いながら、生きることって、地下鉄を乗ったりしてると難しいとおもうけど、ほんとは、そんなことない。世界の側にあるせいやくは、それすべて、自然とよばれるもので、それ以外、なく、わたしたちも、自然に、生きることしか、できない。かぜがふいたら、いいな。おちゃのじかんをもつことも。なんて、すばらしいのだろうとおもいながら、ひるねをして。
大きな夢を見る。お面が、それ自体、遠くへ行ってしまう夢。見送ったお面の裏側に、わたしの一部が貼りついている。じっとりとした汗を纏い。わたしは別のお面を引き出しから出しては、眺め、いつの間につけて、また眠る。
そのお面は、野犬によく似ていて。誰かの作った美しいキムチに似ていて。人知れず咲く花に似て。もうここにいない誰かと繋がるための通路になって。野いちごやブルーベリーやたわいのない会話。時差にも似ている。わたしはお面を器用に変え、呼吸をしている。二十年前の味噌を食べながら、わたしは、美しさとは、振る舞いのことだと知った。わたしの生活は全てダンスの作品。満ち満ちたこの世界を生きることは、その粒の一つ一つをよく見ること。
チェーンの喫茶店に入ると、ここには全てがあるような錯覚。食べ方の汚いわたしは、あした、あなたがくるから、もうすこし、きれいにたべれるように、ならなくちゃ。たべかすも、そうじしなくちゃ。
わたしは、だれなの。
あなたなの。
あなたが美しいから、生きて、見ている。
高田満帆 | たかだまほ
東京都拠点。絵や立体、文章、4コマ漫画、パフォーマンスなどを制作するほか、介護の現場にも携わっている。Instagram:@mahohoyu