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私のアトリエには、大きな窓と掃き出しのガラス戸があります。カーテンはなく、時間と天候によって部屋に差し込む光が移り変わるので、日中は電気を点けずに、そこに佇む作品を眺めるのが好きです。今日は曇天で暗いので、物体の輪郭がぼんやりと空間に溶けていくように見えます。特にこの黄色く着色した寒冷紗のような作品は、薄暗い部屋では上手く写真に写りません。けれどアトリエで見るこの曖昧な状態の方が、作品本来の姿なのではないかなと思っています。
ここ4年程、私の作品には色がありませんでした。作品がよりミニマルに変化していくなかで、どうしても色を一度排除してみる必要があったのです。私のアトリエにはもうずっと、サイアノタイプ(*1)のブルー以外、アルミホイルやステンレスのシルバー、銅線、木材などの素材の色しか存在しませんでした。それが昨年末あたりから、徐々に色を試せるようになり、色味がなく寒々しかったアトリエは、今では黄色く染まった布や粘土が散らばっています。長い青の時代が終わり、私の元にもやっと春が訪れたようです。
作品に黄色の顔料を使うようになってから度々、若林奮の硫黄を用いた作品群のことを思い出します。若林奮(1936-2003年)は、鉄・銅・鉛などの素材を扱い、独自の自然感と身体的感応に対する鋭い意識、他に類を見ない思索的な作風で知られる彫刻家です。大学3年生の冬、友人と葉山の神奈川県立近代美術館で開催されていた展覧会を訪れ、初めて作品と対峙したときの高揚感は今でも忘れられません。特に晩年に作られた《雰囲気》という小さな彫刻をみて、これからきっと大事な指標になる作品だなと感じ、涙目になりながら会場を後にしたことをよく覚えています。初めて「作品が欲しい!」と思ったのも、その時に見た青と黄色のドローイングでした。今私の作品が青と黄色に統一されつつあるのも、この経験に基づいているように思います。美術館のある葉山のロケーションも素晴らしく、私は今でも若林奮の作品を思い浮かべると、冬の静かな海景と、帰りに浜辺で拾った小石の、ざらざらとした感触まで思い出すことができます。それからは、好きなアーティストを聞かれると必ず名前を挙げ、若林奮の関連書籍を見つけるたび、少しづつ買い揃えています。
この本は、昨年インターネットで見つけ、古本で購入したものです。1997年に神奈川県立近代美術館、名古屋市美術館ほか、国内4箇所を巡回した展覧会「若林奮―1989年以後」の開催にあわせて出版された展覧会カタログです。 前の持ち主は几帳面な人だったようで、当時のチラシと半券が二人分、見返し部分に丁寧に貼り付けられていました。誰かと一緒に観に行ったのでしょうか。こういった痕跡を探るのは、他人の日記を覗き見るようでもあり、古本の密やかな楽しみです。
《Dog Field》、《Daisy》といった彫刻作品32点のほか、硫黄の素描《Sulphur Drawing》、庭プロジェクトのための模型・スケッチ等の図版60点余りを掲載しています。酒井忠康、山脇一夫、鍵岡正謹、水沢勉、角田美奈子によるエッセイを収録し、読みものとしてもボリュームのある一冊です。ブックデザインは桑畑吉伸が担当しています。
A4よりも少し小ぶりなサイズ感と、硬い表紙の手触りが絶妙で、手にした瞬間すっかり気に入ってしまいました。カバーは5mmもの厚みがある板紙で出来ています。表紙にあるのは「I.W」というイニシャルのロゴと、背の「ISAMU WAKABAYASHI」の表記のみ。それ以外の情報は一切表にはなく、一見展覧会カタログに思えないミニマルな装丁が特徴です。この物質性の強さは、本と言うより「紙の積層」、本棚に収まる彫刻のようです。若林の作品には、鉄板を何層にも重ねた彫刻や、紙のドローイングを束ねて留めた作品などがあり、作品の表面とその奥のみえない空間へ、強い関心を抱いていたことが分かります。彼の作品に通じる構造が本自体にもあり、相互に作用した本書の佇まいは、彫刻的なニュアンスとデザイナーの意図が感じ取れます。
私は常々、作品を制作し良い展覧会を実現することは、最終的に良い本を作ることに帰結するのではないかと思っています。展覧会において作品は、ただ一瞬その場に現れたオブジェクトに過ぎず、会期が終われば同じ展覧会を目撃することはありません。展覧会カタログや作品集は、単に過去の記録としても楽しめます。しかし少しだけ視点を変えると、空間と時間に囚われない、観念の作品空間であるとも考えられます。
同じ価値観を持つ人と出会い、本が生まれ、人の手を渡って作品が旅をしていく。それは作品を作る喜びと等しく幸せなことです。
2022年4月
今日紹介した本:『若林奮―1989年以後』神奈川県立近代美術館(編) 東京新聞 1997年 25×19cm ハードカバー 171ページ
今日の作品:《ホロン》2022年 寒冷紗、ラッカー塗料、針金、紙粘土
(*1 )サイアノタイプ: 銀以外の感光性のある材料を用いた最も古い印画技法。 クエン酸第二鉄アンモニウムとフェリシアン化カリウム (赤血塩) の混合溶液を紙などに塗布し露光すると、第二鉄塩は第一鉄塩に変化し、 赤血塩と結合して青色の顔料鉄化合物が形成される。 その後水洗いすると露光しなかった部分が流され、 濃い青色の画面となる。 ジョン・ハーシェル (John Hershel) によって1842年に発明された。
木下 理子 | きのした りこ
1994年東京都生まれ。2019年武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程美術専攻油絵コース修了。2022年6月4日より児玉画廊(東京|天王洲)にて個展「Human Humor」を開催予定。 Official Site:https://rikokinoshita.com / Instagram:@kico0703