“永遠”の精緻なレプリカ

第一回「本は風景をだいなしにする」

雨を跳ね返すはずのレインブーツの中から水飛沫が舞い上がる。そんな写真をしばらく部屋に飾っていたことがあった。正確にいえば、写真ではなくそれが印刷されてケースに収まったCDを飾っていた。Gastr del Solのアルバム「Upgrade & Afterlife」は当時すでに廃盤になっていて、オンラインで注文したアメリカの中古CDショップから3ヶ月遅れて手元に届いた。

アーティスト、ローマン・シグネールの《Wasserstiefel (Water Boots)》という作品写真がジャケットに使用されたこのアルバムは、「Our Exquisite Replica of “Eternity”」という曲で幕を開ける。「“永遠”の精緻なレプリカ」。アメリカの公衆トイレの自販機で安く販売されている、某ブランド香水の模造品のことで、大抵は誰にも吹き付けられることなく錆びついて放置されているらしい。形を留めず霧散する香りに“Eternity”と名付けることを不思議に思う。

曲を再生すると薄くゆらぎのある音が流れ出す。壁に掛けたCDジャケットの写真を眺める。シグネールは「コントロールされた破壊」を求めていた。静謐なドローンにノイズが重なっていく音楽は徐々に緊張を増し、ある臨界点──溜まった水が弾け飛ぶ瞬間──を、いやが上にも意識させた。

Gastr del Solのメンバーのひとり、デイヴィッド・グラブスはあるときこんな言葉を記した。「レコードは風景をだいなしにする」。いや、これも正確ではない。正しくはある音楽家の発言から引用された言葉だ。「レコードはあなたにとっては絵葉書以上の意味はないんですね?」哲学者、ダニエル・シャルルに問われたジョン・ケージはこう答えた。「そう、レコードはせっかくの風景をだいなしにする」。

《4分33秒》などの作品で知られるケージは、立ち会った場に生起する不確定な音を体験することに重きを置いていた。録音された音楽は彼の作品の対極に位置しており、家に一枚もレコードを置いていないことを強調していた。レコードへの嫌悪は、自身の著書にも及んでいた。同心円状の図案が用いられた表紙の提案を受け取ったケージは、「表紙のデザイン、おもしろいと思います。でもこの方向性は、どちらかというと非シンメトリーであいまいな私の作品の精神とは反するものです。このデザインはラ・モンテ・ヤングの作品なら合うでしょう」と答えた。

レコード(record)、記録すること。数々の学者が解き明かしてきたように、それは洞窟壁画から語り起こされる。やがて交易や契約の記録のために、古代メソポタミアではトークンと呼ばれる粘土の球体を、それを収納する容器であるブッラに押し付けて印をつけた。トークンは尖筆へと持ち変えられ、粘土板に刻まれる楔形文字へと発展した。運搬のうえで不便な粘土から植物由来のパピルスや動物の皮をなめしたパーチメント、中国で発明された紙へと筆記されるメディアも形を変え、多くの文字を収容するための冊子状の構造体、「本」が生み出された。

技術の神テウトは文字の発明についてタモス王に報告すると、王はこう答えた。「たぐいなき技術の主テウトよ、技術上の事柄を生み出す力をもった人と、生み出された技術がそれを使う人々にどのような害を与え、どのような益をもたらすかを判別する力をもった人とは、別の者なのだ」。文字を記述することは、記憶を外部化することによって、経験の内から想起することをやめてしまう。ソクラテスはこのことを弟子であるプラトンに語って聞かせた。しかしプラトンはそれを本として書き残した。

ある風景を記録することは、それ以外のあり得た数々の風景を棄てることだ。記録とは、そのようにしてしか成し得ない。ケージの問答に絵葉書が例として持ち出されたのは、それが単一の視点で固定されたもので、環境の直接の知覚とは比較にならない乏しい体験であると認識していたからだろう。残されたものは断片でしかなく、再現することは不可能なのだ。

旅先から届く絵葉書を眺める体験は、それ自体がすでに歴史的な風景かもしれない。現地を体験することのない遠く離れた誰かへ、そこに確かに訪れたことの証として、絵葉書は届けられる。一度も訪れたことのない場所に、本を通して出会うのも珍しいことではない。イギリス・ダンジネスに住むデレク・ジャーマンと彼の庭を撮影した写真家、奥宮誠次の『原発ガーデン』は、写真集と呼ぶにも詩集と呼ぶにも心許ないほど薄く小さな本だ。映画監督、舞台美術家、詩人であるジャーマンは、原子力発電所を抱えた「イングランドの砂漠」と呼ばれるダンジネスに、HIV感染をきっかけに住みはじめた。そして彼は、荒涼としたその地に庭をつくった。

彼のガーデニングは、草花だけでなく、漂流してきた木や腐った鉄などを使っていた。」

「死に向かっている物」を集めて、ここに楽園をつくろうとした。」

(奥宮誠次『原発ガーデン』より)

奥宮はダンジネスに幾度か足を運び、彼と彼の庭を撮影した。しかし本書に収録された写真は20枚にも満たず、鮮やかなはずの色彩はスミ一色で淡白に印刷されている。彼と過ごした時間と風景が、おそらくは膨大にあったにもかかわらず。掲載された写真は偶然によるもので、本書の最後にその理由は明かされる。

記録は直接の体験の代わりにはなりえない。しかしむしろ、記録された風景はその情報量の貧しさによって、記録されなかった時間や失われた瞬間が無数に存在していたことを喚起させる。メディアを移植する変換の過程で忍び込むものは、再現という視点からはノイズでしかない。だがそれを別の体験として捉えるならば、情報は量ではなく異なる質として現れる。

この本が2011年以降に出版されたことは、原発による災厄を経験した国のひとりとして、写し出されたもの以上の何かをそこに重ねてしまう。「ACID RAIN」の文字を背にこちらを見つめるジャーマンの瞳は、奥宮がカメラを向けたそのとき以上の悲しみを引き受けているようだ。残された写真に対峙する読者には、時間の積層とともに見ることを拒否できない。読み替えも再解釈も、本が記録として固定されることで生まれる勝手な振る舞いだ。

どれだけ写真を眺めても過ぎ去った時間が戻ることはない。かつて本を開いたその時も、とあるページで手をとめる今も、変化は記録ではなくそれを眼差すこちらに訪れる。記録された一点はそれゆえに、触れるたび個別の体験を与えてくれる。

レコードを嫌っていたケージは、そのわりに多くの本を書き残した。自身の名前であるケージ(鳥籠)をジョークにしたタイトル『小鳥たちのために』という本に、例の問答は記されている。彼の記録への抵抗は、書き残された数々の記録によって伝えられることとなった。

改めて本とは何なのだろうか。ある風景を固定し、物体として現前させることで、時間や距離を超える相対的な比較と多角的な検証を可能にするもの。直接的な体験とは異なる、多様な個別の体験を生み出すことのできるメディア。もしくは、風景をだいなしにする絵葉書の束のことだ。

参考文献

デイヴィッド・グラブス『レコードは風景をだいなしにする』フィルムアート社、2015年

ジョン・ケージ/ダニエル・シャルル『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』青土社、1982年

プラトン『パイドロス』岩波文庫、1967年

奥宮誠次『原発ガーデン』百年書房、2018年


加納大輔 | かのうだいすけ

グラフィックデザイナー。1992年生まれ。雑誌「NEUTRAL COLORS」「エクリヲ」のアートディレクションのほか、作品集や写真集等のブックデザインを中心に活動。www.daisukekano.com